2012年7月24日火曜日

放映が8月1日に延期になりました! by 篠沢礼子

「ワイドスクランブル」の主人のインタビューの放映が、
1週間延びたそうです!
8月1日(水)12時台の人間一滴のコーナーです。
大きなニュースが入ると、又延びることがあります。

申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いいたします。

1 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

篠沢教授 様

6月6日のテレビを拝見し、教授と奥様の、どのような状況にあっても決して諦めずに目標を達成しようとする日々の熱意と頑張りに感動致しました。人が人と繋がりながら個の歩みを止めずに明日へ繋ぐことの意味を、自分自身に問いかけてみる機会でありました。無論答えは出ませんでしたが、結果的に、篠沢教授が稀に素晴らしい気力に満ち満ちた方だということがわかりました。そしてそのことは、長いこと私が懐いていた世にも図々しい願いごとを声にする勇気を与えてくれました。今、私の内なる声は緊張で微かに震え汗ばんでいますが、キーボードで打つ文字は震えも汗も伝えないことを信じてお話させて頂こうと思います。
実は以前、某出版社の詩のコンクールに応募した際、出版社の方から連絡があり、審査員のひとりである篠沢教授が私の作品を評価して下さっているという話でした。私はその真偽、或いは出版社の方に儀礼的誇張表現があったにせよ、とても嬉しかったのです。その詩は、エクスマルセイユ大学への短期留学でエクサンプロバンスに滞在した日々を基に書いた「ニボアンヌ」という作品に出てくる詩です。サンビクトワール山が青空に映える素晴らしい休日に、セザンヌのアトリエの脇の、緑の茂みに埋もれたベンチに座り、ぐっと涙を堪えながら母を想って書いたものでした。あの時、紙と鉛筆が無かったら、私の想いは一気に溢れ、異国の地で呼吸困難になっていたはずです。
その後「ニボアンヌ」が完成しました。書き終えてしまうと、もっと書きたいという気持になりました。私は、書いているうちに女のひとり喋りというもの―――「ニボアンヌ」では過去の私という女のそれですが―――に不思議な魅力を感じていました。そしていつしか、女のひとり喋りで構成する作品が、ジャック・ドゥミによる三部作のように、存在の接点を持ったそれぞれの作品として、見知らぬ人の本棚に並ぶことを夢みていました。題名の下に作者の名前がありました。私は、その知るような知らないような曖昧な印象の名前の主が私自身だと認識するのに、少なくとも瞬時以上の時間を費やして未来の記憶を弄らなければなりませんでした。なぜなら、私は、この漠然とした夢に少しでも現実的なディテールを加えたいがために、違う言い方をすれば、夢を描くならまずは体裁からと言わんばかりの磯野カツオ的発想力を発揮して、つまり「ニボアンヌ」に続く作品の実体が無いうちから、作者としての異名を有する私自身のイメージだけはしっかりと記憶していたのです。
 私は、未来の記憶と現実の足並みを揃えるために、ポジティブな気持ちを維持しながら速やかに動く必要がありました。私には、出版社の知識や知り合いが全く無かったので、如何なる迷いも生じぬまま、10社程の出版社に「ニボアンヌ」の原稿を郵送しました。しばらくすると5社からお断りの手紙が届きました。そのうちの1社は「あなたに合った編集者との出会いがあれば、可能性があるように思います。是非とも諦めずに活動を続けてください」というなんとも罪な内容の手紙でした。とはいえ出版の望みは一旦閉ざされました。私は「アー残念」を何度か口にしましたが、『なにごとも最初からうまくいくことなんてひとつだってありはしない』事象については、日暮れ時の熱いネスカフェと共に濃く深く味わえる年齢に達しているので、気持ちに重い影が圧し掛かるようなことはありませんでした。それよりも書くことの楽しさでした。もともと書くことは好きでしたが、「ニボアンヌ」でいったい何をどんな風に書きたいのかが明確になり、すると書くことがますます楽しくなったのです。この楽しさは、私にとって非常に大きな精神的収穫であり利益でありました。私は、そこから「アー残念」の齎したダメージ分を差っ引いても、暫くは夢の計画を変えずにやっていけるだろうと見積もりましたが、その光の対岸には、当て所なく自由と孤独にかまけようとしている私を軽蔑に近い不安のようなものに駆られた眼差しで見つめるもうひとりの私が見え隠れしていました。私は立ち止まり黙って見つめ返しました。そして自分の楽しみや試みに責任を持つことがどういうことなのかを初めて真剣に考えました。数日後、しかし光の想念は地球の公転より遥かに速いスピードで再び私のもとに戻ってきました。私は、新しい明るみの恩恵を受けて、邪魔くさい理屈やそれに付随する様々なノイズをきれいさっぱりうっちゃることに成功しただけでなく、チャンスが訪れるまでは理屈抜きで書き続けることが夢への距離を縮める最も健全で合理的な方法だと信じることに成功しました。

時間が経過しました。驚くべきは、私が夢を諦めずに今も書くことを続けていることです。更に驚くべきは、未だに「ニボアンヌ」が好機を得て見知らぬ人の手に取られることを諦めていないことです。途中、纏まった空白が幾つかありましたが、ふと姿を消したまま行方不明だった猫がある日またひょっこり姿を現すのと若しかしたら同じ習性によって、やはり書くことに戻ってきました。今年2月に始まった家の防音工事と内装工事は3ヶ月掛かって無事終了、その後長きに亘る疲れが祟ったのか壮絶な体調不良に見舞われた母と私も漸く元気復活、久方振りに家に懐かしき静寂が訪れました。すると私は、若しかしたらひょっこり猫と同じ習性によって、つまり大きな涙欠伸ひとつで如何なる時間の経過をも清算し、まるでなにもなかったかのような自然な気持で机に向かうと、「ニボアンヌ」に続く三部作の第二作目を書き始めました。いつものことですが、書くというよりは、引っ張り出した茶箱の中でこんがらがった古い残り毛糸たちを根気よく解いていく作業と酷似して、頭の中や引き出しの中に散乱する記憶やメモと格闘していると、ある日、6月に入ってからですが、篠沢教授のテレビ放送のことを知ったのです。 
テレビを拝見した私は、教授が大変な病気にも拘らず一途な強い意志を持って一日一日を過ごしていること、教授の表情に私が想像しなかった明るさを湛えていることに心打たれながら、もう願うまいと諦めていた或る思いが、私の中に再び甦るのがわかりました。その思いとは「ニボアンヌ」を教授のもとに置いて頂くことです。作品中の詩「南仏のババ」に関する教授の評価がたとえ行き違いの事実であったとしても、その事実が私の心の支えになったことに違いありません。ですから「南仏のババ」の完成形であり全体像である「ニボアンヌ」を是非とも教授のもとにお届けしたいという思いを懐いて参りました。教授のお体を案じつつも、このような勝手我儘なお伺いを立てて良いものかどうか暫く悩みましたが、勇気を出してお伺いさせて頂くことに致しました。
この一言の為に随分長い文章になってしまったことをお詫び申し上げます。なお、私の話が教授にとって全く身に覚えの無い話であったならば、本当に心からお詫び申し上げます。ご迷惑をお掛けしたことをどうかお許し下さいませ。また、万が一、私の願いが叶うことがあれば、恐縮ですが私のメールアドレスにご連絡頂きたく存じます。
最後に奥様の帯状疱疹が一日も良くなられますように。母もこの春に同病を患い、数週間ほど安静にしておりました。どうぞ無理だけはなさらず、努めてご自愛下さいますように願っております。
メールアドレス teo@ac.auone-net.jp

追伸:ブログへのコメントに慣れておりません。非公開の状態で送信できればよいのですができないかもしれません。公開された場合は、お手数ですが、削除して頂きたく存じます。